つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

逝ってしまった父へ。

お盆ということで、以前読んだ本に感化された部分もあったので、現時点でのことばを書き残しておこうと思います。

 

最後は父にしました。

 

父は49歳で亡くなっています。原因は糖尿病による合併症でした。

当時ぼくは中学1年生。

突然の出来事に、ただただおびえていました。

 

maruyamabase.hatenablog.jp

 

 

父さん

 

 

 

父さんが逝ってしまってから30年はゆうに過ぎていったね。

そのあいだにぼくは就職し、紆余曲折し、結婚し、移住しています。

今年の6月で46歳になりました。もうすぐあなたの生きた時間にたどり着いてしまいます。

 

さいころ、父さんの帰りを遅くまで待っていた記憶があります。

夜は決まってラジオのベストテン番組で、リクエストをかけていました。

夜9時とか10時とかくらいだろうけど、眠い目をこすりながら待っていたように思います。

 

父さんの体調のことは、まったく知りませんでした。

小学校の記憶では、既に父さんは療養生活に入っていました。

その後引っ越し。そして今の場所にたどり着きます。

病気のことは何も知らされていませんでした。治るとも何とも思っていなかったけれど、何の不安もありませんでした。

 

だからでしょうか。

2月10日土曜日、午前授業の日でした。確か英語の授業中だったと思います。

担任が授業中に教室に入ってきました。顔が見えた瞬間、ぼくを呼びに来たのだと感じました。理由はわかりませんがはっきりとわかりました。その後先生の口からは「すぐに自宅に帰りなさい」でした。ぼくは急いで自宅に戻りました。

 

自宅に戻って病院へ向かいました。

父さんは狭いベッドの上にいて、治療を受けていましたね。

ぼくはその光景がどんなことを意味するのか、よくわかっていませんでした。

ただ、「危ない」ということだけは聞かされていました。

この日にはじめて、「死」というものが上からするすると降りて来たのです。

ただただ、祈るしかありませんでしたが、緊張のためなのか、ぼくは具合を悪くし、控室のような場所で横になっていました。

 

 

そしてふいに、親戚が呼びに来ました。

父さんのもとに戻ると、集まれるだけの親戚が集まっており、臨終が告げられました。

今思うと、ぼくを待ってくれてのことだったのかなと思います。

そのあとは悲しみに明け暮れました。枯れるまで涙を流しました。

父親がいないことがこんなにも重くのしかかるなんてとは、考えてもみませんでした。

 

 

それから、いつの間にやら30年です。時がたつのは早いものです。

しかし頻繁に、父さんのことは思い出します。今はコロナということもあって、墓参りにも行けていません。だからかもしれませんが、頻繁に在りし日の父さんを思い返しています。夢の中でもいいから会いたいと、幼いころは本気で思っていました。実際に会えたかどうかは覚えていませんが(たしか1回記憶に残っていたような)、お陰様でぼくはなんとか元気に生きています。いちおう、体調に気を遣っています。

 

 

最低でも、父さんが活きた時間までは生きる、と決めています。

死んでしまいたい、この世にはもういたくないと思ったことは何度かあったけど、今は落ち着いています。しっかりと生きてやろうという気持ちです。気持ちと実際の年齢とでは乖離した部分もありますが、衰えを受け止めつつ、老いていこうと思います。

 

 

いまだったら、母や兄に、父のことをある程度聞けるかもしれません。

それも父さんを想うひとつの行事と思えば、これほどいいものはないのかもしれませんね。

 

 

父さんと母さんの意思や血肉は、しっかりとぼくの中で生きています。

どうか安心してください。

聞きたいことはいろいろあるけれど、それは機会があればにしておきます。

 

 

では、行ってきます。