つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

何もしない。ことが出来ない世の中。

何もしない。

 

 

これって、「興味がない」ことの代名詞に思っていました。

他にも、理由があって何もしないということがあると思います。

 

 

何もしない。

 

 

これはつまりはどういうことなのでしょうか。

つまりは他者とのかかわりを持たないことであります。

他には経済活動をしないことでもあり、人間らしい活動を行わないということになります。

 

こういうときは少なからずあります。脱力したときやいわゆる「糸が切れた」状態になるとこのようになります。

 

 

 

 

しかしながら、SNSや匿名性が「ある程度」保たれる場では、この「何もしない」が存在しないかのような空間が出来上がっています。

 

その空間では読む専門の方もいらっしゃると思うのですが、果たして「何かする」人の割合と、「何もしない」人の割合はどれくらいなんだろうと考えることがあります。それくらい、「何かする」という行動の過激さが目についてしまうのです。

 

 

どうして「何もしない」が出来ないのでしょうか。

 

 

恐らくは、「何もしない」ことがデメリットでしかないと考えているからではないでしょうか。

 

声を上げることは、「何かをする」ということになります。

 

「何もしない」とは意思表明などをしないことになりますが、時にはそれが発信者への賛同(印象操作等によって)に取られる動きもあり、黙っていられなくなってきたのではないかと思います。そして近年、様々な問題に声を上げる人たちが単純に増えて来た(この場合の背景は無視します)ことから、私も純粋に声を出そう、という具合になってきたのではないかと考えるのです。

 

 

 

これまでの古い時代では、何もしないことが何かの美学のように存在していたと思います。

 

しかし、現代ではその「美」の価値は失われつつあるようです。

どこか現実的で経済的。そしてかなり突き詰めた結果を求める傾向にあります。

そこにあるのは、「その地点だけにおける諸問題の総括」があるのみで、他所への影響は考慮していません。だからこそ周辺が混乱し、その周辺もまた混乱していくのです。

確実にですが、求める何かが「変わってきている」ことを実感しています。

そしてそれがなんとなく、崩れる要因になるのではと、危惧しているのです。