つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

ごまかすな! Not cheated!

比較的長い期間の「イライラ」が治まって。

 

これで「ひとまず引いたからいいじゃないの」と思ってしまうところなのですが。

 

 

 

理由と言いますか、原因を考えていました。

 

 

 

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すると、原因ではないのですが、ふと「ごまかすな!」というワードが出てきました。

 

これはいったいどういうことなのか、少し考えてみることにしました。

 

 

 

 

 

 

まず、「ごまかす」とは「誤魔化す」と書きます。

 

個人的な解釈ですが、「魔が化けて誤りを促す」というように読めました。

※この場合の「魔」は、邪魔をする存在と解釈してください

 

 

 

今回のぼくのイライラのケースですが、

 

このイライラを消化する方法をとらせまいと、魔が邪魔をします。

魔は「これをやればいいよ~」と、衝動的な方法をとるように勧めます。

それが今回の「モノを投げつける」「テーブルをひっくり返す」といったような行動でした。

これで鎮まればいいほうですが、実際にはそうはいきません。フラストレーションは溜まるばかりです。魔は「それじゃ足りなかったんだね~じゃあ次はこれをやるといいよ~」と、新たな方法を示唆してくると思います。

 

ぼくの場合、モノを投げた、テーブルをひっくり返した時点で、じぶんの中にあるものが何ら変わっていないことを既に感じていましたので、たぶんこのまま暴れても(汗)何も変わらないだろうなというのを薄々感じていました。そう思いながらも、体全体が狂暴化しつつあり、一触即発の状態です。言い方は変ですが、まさしく「切れたナイフ」状態 笑。このままではヤバイ、という考えと、どうにかして発散させたいという衝動ががっぷりと組みあい、どっちが寄り切るかといった攻防が繰り広げられていました。結局とった選択は、「何もしない」こと。衝動に流されることも、そのイライラを取り去ることもしないことにしました。期間中は自分が自分ではなく、普通の会話ですらも語気を荒げる感じでしたが、イライラは観念したのか、その場から去っていきました。

 

 

 

一応ですが、嵐は去りました。

何もしないことで、被害を最小限にすることができました。

 

 

 

その後で考えたことは、イライラを解消するための手段として、いわゆる「破壊行為」を選ぶのはどうしてなんだろうということでした。

 

冷静に考えてみれば、モノを壊す(またはそれに等しい)行為でイライラが治まるという確証はないのです。むしろ解消しない可能性が高い。つまりは、衝動的な行動はあまり良い展開を生まないという推測が立ちます。これは特に難しいことでもないのですが、それを受けてしまう人間の側がそれを故意に難しくしてしまっているのが現状だと思います。

 

 

 

 

 

 

恋愛で考えますと(なんでだ)、もともと女性はAさんと交際していましたが、諸事情でAさんとは離れている土地に行き、そこで新しくBさんと出逢います。BさんからはAさんがやりたかった仕事等の諸条件に対してサポートすると申し出、それを受けて交際、そして結婚を決めます。じゃあAさんとの関係は?ということになるのですが、Aさんとの関係に対しては課題がありました。それが解決しないまま、その女性はBさんと出逢うことになります。そこで出された魅力的な条件。おそらく、考える時間は少なかったと感じています。

 

このような展開に対し、もちろんAさんは悲しみます。女性への気持ちを何度も伝えます。

しかし女性が口にしたセリフは「神様にお願いしていたから」や「天の采配」といったものでした。

 

これにAさんは愕然とします。

 

Bさんと比べられてのことでも悔しい結末なのですが、出てきた発言が「自分で決めた」ことではなく、他のところからもたらされたからそれに従うだけだという事実に対してでした。その女性は神(もしくは天)からの指示(もしくは思し召しといったもの)を単純に受け取ったのみとしか捉えていないかもしれません。これが結果として良いことだったのか、それともそうではなかったのかを判断するのは個人的酌量が過分に入りますので難しいことこの上ないのですが、原因も探らず、どうすべきかを真剣に考えないまま、ぽっと出てきた魅力的な条件に飛びつくかのように決めてしまうことは「誤魔化し」にあたるのではないだろうか?と仮説を立て、考えています。

 

 

別なケースとして、病気や体調不良の治療に関しても、病状の特徴や治療に関することを掘り下げず、「この薬を飲めばよくなる」との認識しかないまま服用するのはなんだか違っています。不調時には間違いなくその薬に飛びつくようになるでしょうし、不調時の不安はぬぐえないままです。医師の見解・診断が間に入れば、服用中の体調不良に関しても正しく消化することができ、薬の無駄な服用を避けることにもつながります。たとえ副作用がない(または少ない)薬だったとしても、出来ることなら服用しない方がいいに決まっています(個人的にね)。その生活にいきつくためにも、誤魔化されてはいけないと考えます。

 

 

 

誤魔化しとは、問題の本質に迫ることを妨害する事象と定義したとき。

たとえ逆境を救うような出来事が起きたとしても、問題の本質を探ることを妨げるようなものであったならば、その「救い」と思われた事象は「目を逸らせる」ためのものでしかない。

 

 

 

そのひとが言っている「神」も、ひょっとしたら「神以外の存在」かもしれない。

幾つかの経験から、「神」と呼ばれる存在は、そのひとを「救う」「幸せにする」だけをもたらしはしないということを、個人的には確信しています。つまりは、「どん底へ落とす」ということも、「神」という存在は為さるということ。一般的に良いことをもたらすのは「神」で、悪いことをもたらすのは「悪魔」とイメージしがちですが、ほんとうは神も悪魔もなく、ひとつの存在がその両方を為しているにすぎません。

 

ただ、個人的な欲求を渇望してしまうと、そういった存在の「名」をかたる別の存在がいることを忘れない方がよいです。

 

ちょっとごっちゃになっていますが、じぶんに都合のよい面だけをフォーカスしすぎてしまいますと、その欲を利用しようとする存在を引き付けるということ。そして当人はそれすらもわからず、それを神の行為として受け止めてしまうということ。誤魔化すということは、人生という時間の中においてやらなければならないことを知らないあいだに「棚上げ」している行為にあたります。最終的に人間は成仏するのだ、光の中に入るのだ、ひとつになるのだとどこかで聞いたようなことを語っていたとしても、棚上げばかりしてしまいますと「やり直し~」を宣告され、お役目がいつまで経っても終わりません。死後のことを知っているかのように語っているひとが、実はいちばんわかっていなかったという皮肉の展開を生みます。確かに現在では本や映像などで様々な情報が入ってきますが、それを「確かなこと」とできたことはありません。ひょっとすると、この「生きている世界」では、その立証は不可能のように思います。混乱はきたすでしょうが、結局は「見た」「聴いた」などの連続で、それに尾ひれがつくものや、解釈が異なってしまうといった感じになるのかなと思っています。

 

 

 

こんなことを言っているぼくですら、生きているあいだに「お役目」を果たせるかどうかはわかりません。だって、具体的にどんなことが「お役目」なのかを知らないからです。ただ言えることは、この世界でいう「幸せになること」は、必ずしもお役目とイコールにはならないということ。それだけは何故か自信をもって言うことができます。

 

 

 

 

 

人生は「苦しむ」こと。

それが大きな役目であり、その苦しみをどのように受け止め、扱っていくかが、重要のような気がしています。

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とりとめのない文章となってしまいましたが、きょうはこのへんで締めたいと思います。

 

 

 

きょうまでに読んだ本

 

蝦夷物語 子母沢寛 角川文庫 (227)
「原因」と「結果」の法則④ 輝かしい人生へ ジェームズ・アレン 坂本貢一:訳 サンマーク出版 (228)
今日のベリーグッド しあわせを生む小さな種 松浦弥太郎 PHP (229)
中島公園のほとりで 札幌パークホテル二十年のあゆみ 中西章一 三井観光開発 札幌パークホテル (230)
JP01(ジェイピーゼロワン) 留萌・宗谷 総合商研株式会社 ※フリーペーパー (231)