徐々に被害の状況が判明している報道を見ています。
自然相手となりますと、途端にわたしたちは何もできなくなります。
反面、人間相手(特に嫌っている)には何でもできるようです・・・
徐々に実態が判明していくというのは、正直に歯がゆいことかもしれません。
その中には未然に防ぐことが出来たかもしれないものが含まれていることを考えますと、後悔してもしきれません。
それなのに。
どうしても目先の都合で目を逸らしてしまうようです。
わたしたち人間は、物事が結構見えていると勘違いしています。
もしくは、自分のことで手一杯で、それ以外のことなど気にする余裕もない場合も。
結果として「対象の範囲の奥深く」まで理解をしていませんと、フタを開けた時には非常事態になっていることが少なくないと思います。
今回の激甚災害も、数多の被害報告が入ってくる中でそういえば・・・といった話が徐々に増えてきています。ではなぜそういえばの中身をそのときに何とかできなかったのでしょうか?こたえはかんたんで、見えていなかったか、見ようとしなかったかです。
そしてそれは自分たちの体調や職場環境においても表現することが出来ます。
自分の仕事はとても大変だ。
けどアイツは暇そうにしている。一体何をやってるんだ。
こっちに手を貸してもらいたいもんだ。
かなりざっくりですが、上記のようなことを考えて仕事をされている方は少なくないと思います。ではその「アイツ」の仕事環境をその人自身は自分の目で確かめているのでしょうか?もし確かめていなかったとしたら、そこの職場環境はあまりいい状態ではないのかもしれませんね。
(常に余裕のない職場に在籍していましたので、決まり文句のように聞いてきました)
「わかっている」とか
「いつでも話して(相談して)ください」とか
気遣っているセリフを耳にすることはありますが、それでは「入り込んだ」とは言えません。話す場合においても、それが十分に伝わるとは限りませんし、考え方の相違で平行線のまま、という可能性もあります。やはり知るには相手から何かを引き出そうとするのではなく、自分からその環境に入ったほうがよりわかりやすいのではないかと感じています。
住宅環境も、景観ばかり優先してしまいますと防災に弱くなるという懸念が残ります。
職場環境も、自分の忙しさを優先させてしまいますと他方面の処理が滞ります。
体調管理も、だましだまし(もしくは無視)にしていきますとある日突然発病します。
何事もそうですが、見えないところを見ていくというのは、とても大事な作業であるようです。
神や仏といった存在は、こういった「見えない部分」が見えていると説かれます。
だからこそ救ってくれるのだと。
しかし実際に救ってくれる例はほぼありません。
この事実に対し、信仰する人は「〇〇が足りないから」と弁明します。
そのためにはあれだこれだとわかったように解説し、周囲を納得させます。
不思議なのは、その人自身も救いに直面したことがない。
自分自身に対しての「救い」は語ることが出来ますが、それ以外はほぼできない。
価値観も異なります。信仰の世界は難しいものがあります。
そういった存在からの救いはあるのか?
遠藤周作の「沈黙」を読んでいて、とても考えさせられました。
まだまだ日本列島では見えていない部分が山ほどあります。
まずは見えてくる実態を受け止め、状況を平常化させることを目指しながら将来のためにいま見えていないことを見ていく努力をしていくことが出来ればと思いました。