つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

地方に移住して体調は果たしてどうなったか。

ぼくは札幌市生まれの札幌市育ち、40歳ぐらいまではずっと札幌市に住民票を置いていました(北区→白石区厚別区中央区)。

 

その後北海道の道南地方にあたる、二海郡八雲町に移住しました。

今年で移住3年目になります。

 

住環境の変遷は以上となりますが、ふと体調について振り返る機会があったので、忘備録としてここにも残しておこうと思います。

 

 

 

ぼくは決して体力がある人間ではなく、20代のバイト生活時代は帰宅してご飯を食べた後はそのままソファで眠ってしまうことがしばしばでした。ただ若さがありましたので、ある程度の無理はききます。しかしそこからの回復はそんなに早いものではありませんでした。

 

そしてほどなくコールセンターで勤めることになります。

今思うとすげぇシフトだなぁと思うのですが、デフォルトのシフトで

 

「10:00-21:00」

 

というシフトです。

 

これは・・・ないなぁ(笑)

 

 

ただ社会のことなど大してわかっていなかったので、この会社で数年働きます。

役職が付きますと月給も多少上がります。そしてたくさん残業してしまいます。

ついには総務課からクギを刺されるほどにまでなり、やりたいと思っていたことがだんだんとそれは無理だと思うようになってきて、夢破れるようなかたちで最初の会社を辞めました。

この時の調子はそんなに悪くはなかったのですが、食生活の習慣が崩壊していて、お昼はコンビニで弁当かカップ麺&おにぎり等のヘビーローテーション。夜ご飯も帰宅時間が遅いので、胃を休める暇もなく就寝。健康診断などで指摘は受けませんでしたが、体重を増やすには十分な環境でした。

 

 

会社を辞めた後、様々な要因から自律神経のバランスを崩します。

頭痛で眠ることがまったくできず、頭痛薬を服用しても緩和されず、いてもたってもいられない状態でカウンセリングにかかります。このカウンセリングは細く長く続けていましたが、その後心療内科にもかかり、処方箋の副作用で更に体重が増加します。

 

転職先はどこもコールセンターでした。振り返ると、コールセンター「しか」採用されない雰囲気がありました。幾度か別の業界に移ろうと試みましたが、厳しい現実を突き付けられ続けました。転職をしてもほどなく自律神経のバランスを崩すタイミングが訪れてしまい、会社を休まざるを得なくなります。うつという現象は知っていても、その理解は当時まだまだでそした。たとえ病気でも、というのが、現場や人事の意見です。ただ眠るしかできず、ちょっとの不調でも動く意欲が失せてしまう自分の姿勢に対し、当時の上司は疑問だらけだったと思います。うつ状態といっても症状の重さ軽さはありますし、長期にわたる人もいれば短期で復活するという人もいます。その浮き沈みを何度も経験し、多くの職場に迷惑をかけ、何度も勤務先を去りました。

 

心の不調を携えてはいましたが、幸い他の面での不調は認められず。

そこだけが救いだったのかもしれません。

ただ体力は相変わらずなく、ちょっと頑張った次の日は寝込む、ということもしばしばでした。

 

 

 

その後、いろんな出会い(ガラクタ整理とか、いろんなもの)があり、個人事業主として活動することを模索します。そして実際に活動してみたところ、思った以上に大変でした。利益を得ることの大変さを学びました。なかなか結果が出てこないことに焦りも抱きましたし、疑問も持ち始めたりと、順風満帆ではありませんでした。アフィリエイトで稼ぐといった指南もあちこちで見ましたが、自分には合わないと思ったので手を出してはいません。ただ、個人事業を開始するのと同時に始めたのがこのブログです。当初は自分の仕事PRをしまくっていましたが、現在はまったく違った内容になってます。何度かやめようと思ったこともありましたが、お陰様で続いています。

 

 

体調が思わしくないときの特徴として、頻繁に「げっぷ」が出ていました。

どうしても出てしまいます。炭酸を飲んでいるわけでもないのにです。

これが現在ではほぼなくなりました。ひょっとしたら、げっぷも不調のサインだったのかもしれません。

 

 

札幌市に住んでいたあいだは結局、体調が戻ることはありませんでした。

それでも細々と生活していたのですが、この状況を大きく変える出来事がありました。

 

母の入院です。

 

 入院先は耳鼻科だったのですが、親の入院は子にとって衝撃的な出来事でした。

症状もなかなか良くならないため、長期治療を想定しなければなりませんでした。

そうなると考えていかなくてはならないのが、費用の捻出です。

このままではいけない、と、個人事業主としての活動をいったん辞め(その後正式に事業停止)、母の治療費の一部を負担するべく、勤め人になることを選びました。

 

自分の体調を見ながら働いていた個人事業主のときと、社会のルールに合わせて働く会社員のときとは、心身にかかる負担はかなり違います。

 

長期就労はまだ自分には早いと感じ、短期の仕事を探しました。

時期はそれぞれ違いますが、ひとつは年末調整の仕事、もうひとつは官公庁相手の書類整理の仕事でした。

 

年末調整の仕事ですが、勤め先の会社がクライアント企業の年末調整を請け負う、という形式になっており、期間中はクライアント企業の社員さんからの問い合わせ対応を行います。その他書類の確認なども行うため、ピーク時は終電近くまで仕事をしていました。そういったキツさがあったため、数日間突発的に休んでしまい迷惑をかけてしまいましたが、いきなりの仕事にしてはよくやったほうだと思います。

(途中通年雇用の提案もいただいたものの、数日間休んでしまったため白紙になってます)

 

そのあとに勤めた先は書類整理の仕事。

会社として「断捨離」を事業にしているところに勤めました。

これは個人的にも興味があり、応募して採用されました。

ただこの仕事、出張が前提になってます。

なので出張OK、といえば、まず採用されるだろうなと思い、応募しました。

時給もそんなに悪くないですし、移動中も賃金は出ます。

(中には出ないところもあると聞いたので)

家にいるのは週末くらいでしたが、出張生活も悪くはありませんでした。

その時に寝落ちをして、ブログの更新が出来ないことがあったのもいい思い出です。

 

その頃になりますと、体力的な疲れしか感知せず、精神的な疲れはどんどん遠ざかっていったように思います。そしてこの仕事、力仕事も加わっているため、いいトレーニングになりました。ちなみにこの期間中に八雲町の地域おこし協力隊に応募し、採用されております(平成30年度)。

 

そして移住。

地域おこし協力隊として1年間活動し、その後町内にて就職。

現在に至ります。

 

当初は仕事に慣れないこともあり、寝ても寝ても・・・という日々が続きました。

精神的な浮き沈みもありましたが、大きく落ち込むことはなくなりました。

回復した、というよりかは、素体である自分の心身が健康に近づいたというほうが表現としては正しいかもしれません。ここまで5年程度の時間を費やしていますが、よくここまで持ち直すことが出来たな、と感謝しています。

 

 

 

長々と書いてしまいましたが、自立神経のバランスを崩してしまった原因は、自分自身にあったように思います。それは弱さとか、そういったことになります。その代償は大きいものとなりましたが、ここまで戻ってくることが出来、自分でも驚いています。

 

実家の母もその後は浮き沈みを経験しながら様々な対処を施し、現在はある程度落ち着いた生活を送ることが出来るようになりました。子にとってはそれが一番の安心する材料となっています。ただ年齢には勝てない部分はありますので、自分のことも含め、覚悟を決めて日々を過ごしていこうと思います。

 

 

以上、忘備録として。