つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

「待つ」ことが仕事。

繁忙期期間中、ほんとうに様々な出来事がありました。

ぼく個人は一般人なので、そういったニュースについてあれこれと思うことしかできませんが、数多に流れてくる報道から感じて考えたことを、今月は記事にして綴っていこうと思います。

 

 

 

 

今回は「待つ」ということについて。

 

 

「待つ」という時間帯は、これまでは「無駄」の時間であったように思います。

単純に「待つ」「時間が過ぎる」だけと捉えていたように思います。

いつからかわたしたちは、その「待つ」時間を他の仕事などに充て、効率化というものを図ってきた印象があります。

 

ぼく個人が良く見るSNSTwitterですが、よく副業系のアカウントや、〇〇で稼ぐ系のアカウントからフォローされることがあります。それはかつて自分で仕事をしていた(しようとしていた)ときの名残が残っているからなのかもしれません。

 

その人たちのプロフィールを見ると、いかにも「短期間で結果を出した」ことをアピールしています。その裏には「簡単に」「短期間で」というキーワードがちらつきます。

そしてお決まりの「方法を教えます」「お金を配ります」です笑。

結構前にお金配りのシステムの内情が出ていましたが、最近ではどうやら犯罪の温床になっているのではという投稿も見受けられます。

 

 

話を戻して。

 

上記のような投稿を見ると、まるで「待つ」ことが「無駄」だと言われているように感じます。そんなことをしている間にも、利益を積み上げることはできるんだよと。

 

では「待つ」ことが本当に無駄なのか?と考えると、決して無駄ではないことがわかります。論文等のソースはありませんが、今の仕事と、感覚としての話になります。

 

 

①待つことを含めて仕事等の一環としている

 

 メインはここです。

 ぼくの職場ですが、牛を飼育しています。

 牛の餌は、草になります。他に穀物飼料などもありますが、ぼくの職場の場合は、草のみになります。

 草ですが、生えてくる時期というものがあります。そして草も「収穫」するという仕事が年間の中で発生します。

 野菜やお肉、お魚などに言えることですが、「待つ」という作業があって初めてお目にかかることのできるものになっています。

 待つということは、それらに育ってくれる時間を与えるということです。

 

②「待つ」は省略できるとは限らない

 

 誰しもが効率的な~と考えたとき、待つ時間がもったいない、または無駄だと考えるかもしれません。かといって、その「待つ」時間は、そのすべてが省略できるとは限りません。

 

 ものづくりを行う際、ひとりで3時間かかって完成させる作業があったとします。

 それを「3人で1時間かけて完成」させようとしたとします。

 この「待つ」の省略は、果たして可能でしょうか?という問いになります。

 ケースによると思いますが、短くなるかもしれませんし、かえって長くなるかもしれません。作業の中にはどうしても「待つ」時間が発生します。それを無駄に省こうとすれば、余計に待つことになってしまうこともあるのではと思います。

 

③「待つ」ことに慣れることが大切

 

 現代では短期間で結果を出すことにある種の意義が込められています。

仕事においても同様で、短期間で結果を出すことが出来れば、そこにかけられたコストを圧縮することが出来ます。そういったマインドがいろんな分野にも広がり、結果蠢いているという感じになっています。

 

 それはそれで自由なのですが、そうなると「待つ」ことに対しての免疫はなくなってしまうんじゃないかと危惧しています。だって待つことは大事ですよ?根本的なことですが、誰にでもペーペーな時期があったと思います。そんな状態で「短期間で結果を出す」ことは難しいです。周りの人たちが「待つ」ことをしていてくれたからこそ、現在の立ち位置があるのではないでしょうか。そこに反感を抱く、またはわけがわからずドロップアウトしてしまった人たちは、もったいないことをしたなと思います。

 

 

 

ぼく個人としては、「待つ」ことはとても大切です。

これからもこの要素を大事にしていくことと思います。

この要素がなければ、わたしたちは大切ななにかを失ってしまうような気がするのです。

 

これからもぼくは、いろんな物事に対して、待つことをしようと思います。